君の努力は間違っていないか?
久しぶりの投稿になってしまったが、今日は「努力」ということについて考えてみたい。
つい先日ツイートした内容を深掘りしてみることとする。
4/20
— tk. (@educator__007) 2021年4月20日
頑張り方って大事なんだよな。
意味のない努力を100するのと、意味のある努力を1するのだったら、後者の方が成長する。だけど世間的には前者の評価の方が高かったりする。こういう根性主義みたいなのが美徳とされて、小さい頃から刷り込まれてるから、正しく努力できる大人が少ない。
私は職業柄、これまでに多くの子どもたちと接してきた。
彼はそれぞれに目標を持ち、それを達成するため日々頑張っていた。
ある子は医学部に合格したいという壮大な目標を持っていたし、ある子はなんとか進級したいという切実な目標を持っていた。
そしてこの子どもたちと最初に接するとき、彼らや彼らの保護者は決まってこう言った。
努力してるのに結果が出ない。
それはそうだろう。努力が必ず報われるほど世間は甘くない。どれだけ頑張ったとしても、結果がついてこないことなど、よくあることだ。だが、私の経験則から言えば、こういう発言をする連中はそもそも努力すらしていない。
はっきり言って、同じ単語を100回書くとか、美しいノートをとるとか、それは努力とは言えない。それで努力したというのは、ただの自己満足だ。意味のないことをどれだけやっても無駄。チリも積もれば山となる、という言葉があるが、ゴミを集めたところで出来上がるのはゴミの山だ。
どうせ時間をかけるなら意味のある努力をした方がいい。限りある貴重な時間を使っているのだから、効果を最大化する努力をするべきだ。そこで冒頭のツイートに戻るが、未だに意味のない100の努力が評価されてしまう場面が非常に多い。これがこの問題の最も重要なポイントだと思う。
私のように、他人の評価なんてクソ喰らえ、みたいな人間なら問題ないかもしれないが、そのような人間ばかりではない。やはり他人の評価を重要視している人がマジョリティである。会社でも家庭でもどこでも、大多数の人たちにとって、他者からの評価は絶対的に重要なものだ。そしてその他者からの評価が、意味のある1の努力より意味のない100の努力に向けられるのであれば、必然的に後者が優勢になるのは仕方ないことだ。こういう正しくない評価が正しくない努力を誘引している。
評価者には評価者なりの言い分があるのだろうが、正しく評価出来ないのであれば、それは評価者としては失格ということだ。
まあツラツラとここで持論を述べたところで何かが変わるわけでもない。残念ながらそう簡単にこの構図は変わらない。であれば、とにかく正しく努力し、正しく評価してくれる環境に身を置くべきだ。